銀閣寺 東山慈照寺 (京都府京都市左京区銀閣寺町) | ||
1482年、室町幕府8代将軍・足利義政によって建立された。 1443年、失墜した将軍家の権威を取り戻そうとして暗殺された父・義教(6代将軍)の跡を継ぐような形で8代将軍となった義政(7代・義勝は在位1年で早世)は、若い頃こそ父の遺志を継いで積極的な政治活動を行おうとしたが、有力守護大名らに阻まれて思う通りにいかず、次第に政治に無関心になり、隠栖生活を送る場として、この地に東山殿の造営に取り掛かった。これが銀閣寺の発祥といわれる。 数寄に興じた義政は、「わび」「さび」に通じる日本独特の美意識「東山文化」を開花させるが、将軍家、管領家の家督争いに対して優柔不断な態度を取り続けたことで日本全土を巻き込む応仁の乱(応仁・文明の乱)を引き起こし、時代は戦国時代へと移行していく。 (メモ) 戦後から昭和40年代かけての貧乏学生のイメージである四畳半の部屋は、東求堂の書斎・同仁斎が始まりで、草庵風茶室の源流といわれている。当然、貧乏学生の四畳半とは違い、同仁斎には違棚と書院(出文机)があり、いかにも「わび・さび」といった感じになっている。 |
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観音殿(銀閣)【国宝】 | 銀沙灘と向月台 | 展望所から見た銀閣 |
![]() 本殿(国宝) ![]() 北野大茶湯の碑 |
北野天満宮 (京都府京都市上京区馬喰町) | |
学問の神様である菅原道真公を祭神として祀っている天満宮、天神社の総本社。 1587年、九州征伐を終えた豊臣秀吉は、権力を誇示するため、この北野天満宮の境内で大規模な茶会・北野大茶湯を催した。 開催にあたっては、次のようなお触れが出されたという。 ①北野天満宮にて大茶会を行い、秀吉所有の名物茶器も展示する。 ②茶道具、なければどんな入物でもよいので持ってくれば参加者の身分は問わない。 ③席を設ける者は、畳2畳分のものを設置し、服装、履物は自由でよい。 ④外国人も歓迎する。 ⑤遠方よりの訪問も考え10日間開催する。 ⑥来ないものは今後、茶会を開くことを禁ずる。 ⑦茶湯の心得のある者は、身分を問わず、秀吉自ら茶を振舞う。 茶会には、天下三宗匠・千利休、今井宗久、津田宗及らだけでなく、武将でありながら茶人としても知られる古田織部、細川三斎らも出席し盛大なものになったという。 しかし、10日間開催する予定だった大茶会は、たった1日で閉幕。理由としては、九州・肥後で大規模な一揆が起こり、秀吉の機嫌を損ねたというものや、1日に100人もの相手をして秀吉自身がつかれてしまったなど、諸説あるがはっきりした理由は分かっていない。 (メモ) 本殿(国宝)は、秀吉の遺命により、豊臣秀頼が1607年に再建したもの。 源家相伝の太刀で国の重要文化財にも指定されている鬼切丸(髭切)を所蔵している。 学問の神様を祀っているだけあって、修学旅行生で賑わっている。 |
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三光門(重要文化財) | 太閤井戸 | 細川三斎が水を汲んだ伝わる井戸 |
![]() ![]() 二の丸御殿(国宝) |
二条城 (京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町) | |
天守:なし 日本100名城 世界遺産 | ||
戦国期を中心とした主な歴史 1601年 徳川家康、天下普請による築城を命じる。造営総奉行は板倉勝重。 1602年 御殿、天守の造営に着工。 1603年 竣工(天守以外)。家康、征夷大将軍就任の「祝賀の儀」を行う。 1611年 家康と豊臣秀頼の会見が行われる。 1614年 大坂冬の陣。家康の本営が置かれ、ここから大坂へ出陣する。 1615年 大坂夏の陣。家康を二条城滞在中に暗殺しようとした陰謀が露見する。 これに関わったとして古田織部が切腹となる。 1619年 徳川秀忠の娘・和子の後水尾天皇への入内に備え改修される。 1620年 和子が二条城から長大な行列を伴い後水尾天皇に入内する。 (メモ) 築城当時の御殿が現存しており国宝に指定されている。他にも重要文化財に指定されている建造物が多数あり、とにかく立派。庭園は小堀遠州作といわれる。 織田信長が足利義昭のために造った城や、信長自身の宿所として造った城も「二条城」と呼ばれるが、現存する二条城とは全くの別物。 徳川家康と豊臣秀頼の会見では、家康が上座に座り、主従の逆転が起きた。家康は成長した秀頼に器の大きさを感じ、早急に豊臣家を滅ぼすことを決めたといわれる。 15代将軍・徳川慶喜が大政奉還の意志を表明した場所でもある。 |
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天守台 | 唐門(重要文化財) | 二の丸庭園 |
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西南隅櫓(重要文化財) | 東南隅櫓(重要文化財) | 東大手門(重要文化財) |
![]() 本能寺跡を記す石碑 |
本能寺跡 (京都府京都市中京区小川通蛸薬師元本能町) | |
「本能寺の変」があった場所。 1582年6月2日早朝。わずかな供のみで本能寺に滞在していた織田信長を、明智光秀率いる軍勢が急襲して信長を自害に追い込んだ。 光秀の謀反を伝え聞いた時の信長の言葉は「是非に及ばず」だったという。 (メモ) 現在の本能寺は、ここから直線距離で約1キロちょっと離れた場所にあり、本来のこの場所は老人ホーム並びに高校の学舎となっていて、道路に面した敷地内に石碑が立っている。 2007年の発掘調査で、幅2~4m、深さ1mほどの堀に囲まれ、石垣や土居(土塁)も備えていたことが分かっている。 |
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![]() 本堂 ![]() 信長公廟 |
本能寺 (京都府京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町) | |
現在の本能寺。山号はない。本来あった場所からは1キロちょっと離れている。 「本能寺の変」で焼け落ちたのち、同じ場所に再建しようとしたが、豊臣秀吉の都市計画による区画整理でこの場所に移された。境内には「信長廟所」もある。 (メモ) 「本能寺の変」以外でも幾度か火災に見舞われており、「能」の「ヒ」の部分が「火」に繋がるとして、「ヒ(火)が去る」という意を込め、「ヒ」の部分が「去」という字体になっている。 |
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大寶殿宝物館 <見れた展示物> 紹介している展示物は常に見れるとは限りません。 唐銅香炉 「三足の蛙」 文字通り「蛙」の形をした香炉。「本能寺の変」前夜に鳴いたという伝説がある。 織田信長所持 藤四郎丸茶入 朝倉義景が所有していた茶入。本能寺の変で炎に焼かれ、釉薬が溶けている。 織田信長所持 霰釜 信長お気に入りの茶釜。「本能寺の変」前夜の茶会で使われたと伝わる。 森蘭丸所持 森蘭丸陣太刀背負刀 蘭丸所有の大きな陣太刀。実用的ではないので、威光を示すためのものと思われる。 |
鷲峰山高台寺(京都府京都市東山区下河原) |
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豊臣秀吉の正室・北政所が秀吉の没後1603年に後陽成天皇から「高台院」の号を勅賜されると、秀吉の菩提を弔うために徳川家康の支援を受けて建立した。庭園があり作庭は小堀遠州と伝わっている。 境内には傘亭(からかさてい)と時雨亭と呼ばれる茶室があり慶長年間(1596~1615)に高台院によって伏見城から移築され、1515年の大坂夏の陣では2階建となっている時雨亭で高台院は燃える大坂城を見つめていたという。 霊屋には秀吉と高台院の木像が安置されており、高台院の木像の真下には今も高台院が眠っている。 (メモ) 本尊は釈迦如来。 霊屋、傘亭、時雨亭はいずれも国の重要文化財に、庭園は国指定史跡・名勝に指定されている。 幕末には新選組から離脱した伊東甲子太郎らが高台院の塔頭・月真院を屯所としており高台院党と呼ばれた。 |
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開山堂 | 霊屋【重要文化財】 | 傘亭(手前)と時雨亭(奥)【重文】 |
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退耕庵 (京都府京都市東山区本町) |
東福寺の塔頭。応仁の乱で荒廃するが、安国寺恵瓊によって再建された。 関ヶ原の直前に、石田三成、宇喜多秀家、安国寺恵瓊が、寺内の茶室で謀議を行ったといわれる。 (メモ) 幕末の鳥羽・伏見の戦いで東福寺が長州藩の本陣となった縁で戦没者の菩提寺となった。 見学は要予約。なければ、入り口付近しか覗けない。 |
方広寺 (京都府京都市東山区大和大路通七条) | ||
戦国期を中心とした主な歴史 1595年 豊臣秀吉の命により創建。 1596年 慶長伏見地震により大仏が倒壊。 1603年 豊臣秀頼、大仏の復興を図るが、流し込んだ銅が漏れて火災が発生。大仏殿まで焼失する。 1608年 豊臣秀頼により再建が開始される。 1612年 2代目の大仏が完成する。 1614年 方広寺鐘銘事件。梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が問題となり、大坂の陣へ発展。 (メモ) 山号はない。 「国家安康」「君臣豊楽」を、「家康の名を分断して呪った上で、豊臣を君主として楽しむ」と解釈され問題となった。 梵鐘は重要文化財に指定されており、問題の銘文も分かりやすく白い枠で囲んでくれてある。 大仏は秀吉や秀頼が造ったものを入れ4代目まで存在した。4代目のものは1973年に焼失した。 隣接する豊国神社、さらに京都国立博物館、三十三間堂も、かつては方広寺の敷地だった。 |
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![]() 鐘楼 |
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醍醐山(深雪山)醍醐寺 (京都府京都市伏見区醍醐東大路町) | ||
874年、理源大師聖宝によって創建された。寺名からもわかるように醍醐天皇の厚い庇護を受けた。 室町時代、応仁の乱で五重塔を除く建造物は焼失。桃山時代に入り、豊臣秀吉が「醍醐の花見」を催すにあたって、紀州から金堂を移築するなど整備が行われ、700本の桜が植樹された。花見に招待されたのは女性ばかりで、男子の参加者は、秀頼と前田利家のみ。諸大名たちは伏見城から醍醐寺までの警備や設置された茶屋の運営にあたった。 この席で、秀吉お気に入りの側室・淀殿と松の丸が、正室・おねの次に杯を受ける順番を争い、客人として招かれていた前田利家の正室・まつが「歳の順からいえば、この私」といって仲裁に入り場を鎮めたという逸話が残る。 (メモ) 醍醐寺自体は世界遺産に認定され、その中でも金堂と五重塔は国宝にも指定されている。金堂は秀吉の命により移築されたものだが、五重塔は醍醐天皇の菩提を弔うために朱雀、村上両天皇によって建てられた。ちなみに西大門(仁王門)は、豊臣秀頼によって再建されたもの。 金堂に安置されている薬師如来坐像と脇侍の日光・月光菩薩立像は、重要文化財に指定されている。 |
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金堂【国宝】 | 西大門(仁王門)【重要文化財】 | 五重塔【国宝】 |
三宝院 | ||
1115年、醍醐寺第14代座主・勝覚僧正によって創建された醍醐寺の塔頭。醍醐寺歴代座主の居住する本坊して使われた。 醍醐寺同様、応仁の乱で焼失。「醍醐の花見」をきっかけに秀吉によって再建され、庭園は秀吉自身が基本設計をしたという。 (メモ) 表書院、唐門が国宝に指定されているほか重要文化財に指定されている建造物が多くある。そのなかのひとつ純浄観は秀吉が催した醍醐の花見で醍醐寺槍山(醍醐山の中腹)に建てられたものを移築したもの。 通常、未公開であるが、本堂に祀られている弥勒菩薩坐像は、慶派の天才仏師・快慶の手によるもの。 |
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大玄関【重要文化財】 | 唐門【国宝】 | 庭園【国指定特別名勝】 |